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『あしたはアルプスを歩こう』 角田光代

あしたはアルプスを歩こう (講談社文庫)

角田 光代 / 講談社



登山が趣味の方から貰った本。

単に、山から見える風景だとか、名所案内なんかではなくて、角田さんのフィルターを通して、「登山体験」が語られている。

小説家の目を通すと、こんなにも豊かな体験になるのか…!言葉の力の凄さを感じた(私のつたない文章で、この本の魅力が半減するのではないかとハラハラしている)。

一緒に同行した登山マスター(?)のマリオさんの思想の背景に迫り、自身の作家活動―言葉を紡ぐ仕事―を登山になぞらえているため、登山が、一人の人生に大きく作用していることがありありと伝わってくる。

 「マリオさん、このあいだ、キリスト教は自分には違和感があったと言いましたよね。でもそれで、仏教には違和感は感じなかったんですか」(※マリオさんは仏教徒)
 「感じなかった」
私を気遣い、ゆっくりと先を歩いていくマリオさんは即答する。
「それはどうしてですか。仏教の何がよかったんでしょう」
私はなおも聞いた。先を歩くマリオさんは、言葉を選びながら、静かに説明する。
仏教は禅を組む。そうして、悟りの境地をずっと待つ。それは自分にしかわからない。禅の先にあるものは、自分でいって、自分で見ないとわからない。見たことのないものを、ただ言葉で説明されて、これを信じなさいと言われても、私には信じることができない。自分の目で、体で、見たり知ったりしていないから。けれど、仏教は違う。見たり、感じたりできなければ、わからないまま、知らないまま、捜していかなくてはならない。仏教のそういうところが、自分の性にあったんだと思う。

(略)

「神さまを信じるのも、山に登るのも、マリオさんにとっては同じことですね」
そうなんです。マリオさんは答える。
「あそこに山がある。頂上に登れば、向こう側の景色が見える。登らないで、見えない景色を推測することを私はしたくない。自分の足で登れば、頂上から向こう側の景色が見える。自分の目で見ないと信じられない。逆に、自分の目で見てしまったら、もう信じるしかないんです。それは山も、神も私にとって同じなのです」
マリオさんはそこで言葉を切り、少し考えて、つけくわえた。
「山に登っていると、頭のなかが空っぽになる。禅も同じ。禅を組んでいると、自分自身が空っぽになる。それで、自分以外の何か大きなものと一体になるという実感がある。山と禅はよく似てるんです」
マリオさんの言葉がすんなりと心に届いたのは、実は私も同じようなことを考えていたからだ。
人の言葉を使わないこと。人から見聞きしたものを安易に信じないこと。自分の手で触れ、自分の目で見ること。何かを書くときに、私が自分に課している唯一のことだ。

(略)

山を歩いて、私が考えていたのは、「書く」ということについてだった。
たとえば、山を歩き立ち止まり、目の前に広がる光景に目を凝らしたとき、私は幾度も言葉を失った。このすさまじい、見たことのない光景を描写する自分の言葉を私は持っていないと気づかされるのだ。世界は言葉の外にある。歩かなければ自分の世界の外へといけないように、自分の言葉を獲得しなければその世界はいつまでも外側にある。言葉というものに、おそらく私はずっと挑み続けなければならないのだろう。

by fresh-mango | 2011-05-15 20:09 | 旅行/さんぽを楽しむ | Trackback | Comments(0)

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